2016年2月27日土曜日

2月27日

 引用や参照をとらない長文では自分の身に起きたことのみを語ることしかできず、それは得てしてナイーブなものに落ち込んでいくのだけど、それを語る「私」も結局のところ周囲のさまざまな物事からの引用によって形成されていて(ここまで知人の言葉の引用)、経験や感傷を文字に起こす青臭さを引き受けて文章を書くということにも慣れてしまった。「私」そのものは空っぽで、そこから無理やり感性だのセンスだのを引き出そうとするのは不可能でしたという話。あるのは無駄に単語をこねくりまわすような、見掛け倒しの修練の成果。自分には何かちょっとした「個性」らしきものがあるのではないかというささやかな妄想を完膚無きまで叩き潰されたのは、この2年間がもたらしてくれた貴重な経験だった。私は経験から学ぶことしかできないので、地に足をつけることができないまま身を滅ぼすよりは、なんの個性も持たない身体を地べたに擦りながらうんうんと唸っている方がまだ救いがあるような気がするが、結局どちらもそんなに違いはないかもなとも思う。

 たとえば自分が芸術などのことについて薄っぺらなことを書いたり語ったりするときは、たぶんモチベーションの維持が難しいときで、まあ偉そうなことを言ったことだしちゃんと物を作るしかないな、という感じで無理やり意識を制作の方へもっていくために。今はとりあえずやれそうなので特に書くことがない。とりあえずやるしかない、というのは何か大きな理想のためではなく、もう後戻りできないというニュアンスも多分に含んではいるけれど、今この瞬間に手が止まってしまうよりはマシだ。やめるときは、やめることについてきちんと考えた上で「やめよう」と覚悟してからやめると思う。土曜日の中野は何かを決断するにはあまりに穏やかで、こういう文章を書くのもあまり似つかわしくない。
 「やめることは続けることと同じくらい難しい」というのはよく聞く話だが、そう簡単に比較できるものではない。1月の展示に来てくれた大学時代の友人が演劇をやめたことを聞いたときにはそれを受け止めることができず、「お疲れ様でした」という一言しか出てこなかった。西荻窪の小劇場で初めてその友人の舞台を観たのが大学4年の夏で、ちょうど自分が大学院への進学を考え始めた時期と重なっていて、芝居そのものの生死に肉薄するような美しさと同時に、大学内では見せることのなかった才能と強い意志を垣間見たように思えた。今となっては、もっと彼女の芝居を観ておけばよかったと思う。またいつでも観ることができるだろうと思っているうちに彼女は舞台から降りてしまって、ここに書くべきことではなかったのかもしれないし、数えるほどしか観ることができなかったけれど、私が観た舞台で彼女が演じた人物はとても素敵なものだった。それだけは書き残しておきたい。
 修論で追い込まれていたとき、「研究は命を賭けるほどのことではない」という教授の言葉に救われた。当たり前だけど、写真も同じだ。たぶん仕事も。
 何も考えずにただ書くというのは文脈に身を委ねたりそれをぶった切って別のことを話し出すことで、それはそれで楽しい。『あの頃、君を追いかけた』という(酷い邦題のついた)台湾の青春映画を観た。物語の最後に描かれていたのは主人公の男がかつて思いを寄せていたヒロインの結婚式の場面で、男は高校時代の仲間とともに新郎新婦との記念撮影を終えたあと、ヒロインの夫にキスをする。男同士のキスが画面にスローモーションで映し出され、そこからセンチメンタルな音楽に合わせて長い回想シーンが始まる。映画自体は何てことのないベタなラブストーリーだが、主人公とヒロインの断片的なエピソードの集積が、極めてエモーショナルに、美しく捉えられたラストシーンは圧巻だった。
 現実に、たとえばかつて好きだった異性のエピソードを当時と同じくらいの熱量で語ることのできる人はいて、しかし私はそういうことができない(特に恋愛について語るべきことがない)人間なので、生活の中に美しい回想シーンが挿入されることもない。TSUTAYAで狂ったように恋愛映画ばかり借りて観ているのもまたエピソードの集積であり、それはフィクションからエピソードを引用して、それを分類して咀嚼することで「人生は映画ではない」という面白くもない事実をひたすら反復する作業になる。人間同士の関係にドラマチックなエピソードはなく、わざわざそれを持ち込む必要もなくなったが、少しでも油断すると集積されたエピソードは自家中毒を引き起こす。その作業を繰り返すことに何の意味があるのかわからないが、エピソードの自家中毒には一瞬の悲哀と快楽があり、単にそういう性癖の持ち主だということなのかもしれない。
 引用や参照をとらない長文では自分の身に起きたことのみを語ることしかできず、それもまた断片的なエピソードの集積だ。ここまで書いて、書くことに飽きてしまった。